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2004/04/20 (Tue) 名探偵・日記ダイアリ

 彼の名前は日記ダイアリ。誰もが彼を名探偵と呼ぶ。彼に解決できない事件はない。得意技は超絶帰納論理展開と呼ばれる推理で、まあ、言ってみりゃ押し付けなんだけど。
 今日は彼は一人で考えていた。テキストサイトの盛衰とブログの登場によって白熱が加速した「日記」界。人はなぜ日記を書くのか。そして、なぜ書くことをやめられないのか。以下は彼に語ってもらった内容である。

 まず、「日記」は「似る喜(にるき)」に通じる。つまり他人と同じような喜びを共有したいがために綴るのだ。そして、日記は「日」を「記」す。さらに云えば「日」と「言」、つまり「言葉」で「己」を書くことなのだ。ゆえに書くことは本来、自分のことだったはず。自分がその日に体験したことを綴るものだ。時代を遡ってみれば紀貫之のなんたら日記が有名だが、その日に体験したことを綴るという点においてそれは邪馬台国の時代にまで遡る。魏志・倭人伝では日記を「爾喜(にき)」と表現している。爾、つまり「おれ」である。俺の喜び、なのだ。つまり紀貫之は「女がすなる日記というものを男もするなり」みたいなことを言って書き始めたが、本来的に日記は男が書くべきものであって、女子供はすっこんでろ、みたいな風潮があった。しかし当時の民間人は字の読み書きができなかったため、邪馬台国の女王は日記を女のたしなみ、と位置づけたのが始まりである。
 そしてなぜ日記を書くのか、なのだが、人は自分をスペシャルな存在だと位置づけて欲しいものなのだ。他国の日記事情を見てみればよくわかるだろう。まず欧米。一般の民間人が日記を付けるなど、老人以外にやっていない。若者はまるでそんなことはしない。なぜか? なぜならば他国の若者は自分をスペシャルな存在だと認識しているからなのだ。いや、多少は書いているかもしれない。しかし、それをわざわざネットに載せて全世界にさらすようなことはしない。する奴もいるがな。そしてアジア、アフリカの諸国では日記は教育的・政治的なツールだ。今日はこの地区で暴動が起きた、今日はこの地区で井戸が開通した、などなど。ニュースみたいな扱われ方をしているのだ。文字通り、その日の記録に過ぎない。そこに自意識が入り込む隙間もないというわけだ。
 ならば、どうして日本という国で日記が盛んになったのか。理由は簡単だ。戦後の「平等社会」「平等教育」によって、標準偏差のもとで育てられた子供たちは自分の存在を「平均より上あるいは下」という考えで捉える。ゆとり社会? ゆとり教育? たわけが。ははは。ちゃんちゃら可笑しい。そんなものはほとんど意味がない。阿呆を育ててどうする。つまり、平均を主軸に考えていると、自分を相対的にしか認識できないのである。自分は自分だと云いたい若者および若者の意識を持ち続けているモラトリアムくんだりは、絶対的な自分の確保に躍起になる。そのためのツールが、全世界に発進された、自分を評価するための物差しなのである。それが日記。日本の実情を記す、とした外国人記者は個人の日記を読んで日本をクレイジーだと判断したという記事がある。しかし、「記事」は「生地(きじ)」に通じるから、そんなクレイジーな風潮が日本のあるがままの姿だと言っても過言ではないだろう。ははは。いとをかし。
 まあ、さらに云えば「記事」は「雉(きじ)」に通じる。雉といえば「犬、猿、雉」である。つまり、「居ぬ、去る、記事」なのだ。居ぬというのは自分がいないということ。自分を表現したいがために自分を殺してしまう。去るというのは自分の考えを捨て去ること。そうまでして記事を形にしたいのだな。そうすることで日記の姿はさらに多様化した。自分を表現するため、再び標準偏差判断法に立ち戻ったのである。人と同じような手法を使い、同じようなネタをこねくり回し、同じようなメディアから引っ張ってきたソースをどうにか脚色して自分の日記、とする。つまり、編集した自分を認めて欲しいのだ。こいつはすごい、と思われたいという部分では同じなのだけれど、ここで次の段階が必要になる。「居ぬ、去る、記事」は揃った。ならば次はそれらをまとめる「桃太郎」が必要だ。編集者、つまり日記書きは自身を超絶の存在・桃太郎と置き換えようとしている。無意識にしているのだ。しかし「桃太郎」は「喪模他狼(ももたろう)」に通じるから、死んでしまった一匹狼を模そうとして結局失敗してしまっているケースがほとんどだ。つまり、オリジナルになりきれていないのだ。ならばその桃太郎に対する「鬼」はどこにいるかと言うと、「鬼」は「御爾(おに)」に通じるから、上記のように爾という字は俺を意味するので結局、「俺様」という意味に帰着してしまう。日記はどこまで行っても結局自分を綴る以外にないということだ。
 そして、日本古来の伝統の物語、「桃太郎」に「日記」の在り方が内包されているとすれば、これはもう、将来のことも予測可能である。
 桃太郎は突如流れてきた桃から生まれ、そして鬼を殺し、姫と金銀財宝を手にして帰る。もうお分かりだろう、「御爾」つまり「自分自身である俺様」を殺し、「姫」と「金」を手にするのだ。「姫」は「秘め」に通じ、「金」は「貨値(かね)」に通じる。よって、自分自身の表現を殺してまで金を稼がなければいけなくなるときが来るというのだ。そのとき、秘めるまでもなく、隠すまでもなく、日記帳は閉じられるだろうし、日記サイトも更新できなくなるだろう。それを教えてくれたのはやはり桃太郎から生まれた「侍」である。桃太郎は大人になり、桃太郎侍になっていく。アフターサムライ、と呼ばれるサイトの中でも、今ではあの伝説の「侍」を知らない世代が出始めている。あの侍の生き様に分かるように、最後の最後で「俺様」を殺すとなれば舞をひとふり舞って、華々しく斬り捨てるだろう。
 つまり、日記なんてやってられるのも若いうちだけですよ、ということだ。だから今はせいぜい書くがいい。それが「記」である以上、最初に書いたとおり「喜」に通じるのだ。読み返してみれば当時の儚い思い出に顔を綻ばせられるに違いない。

 …という具合で案件、今回も完了! 一件落着ッ!

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