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自分なんかが生きていて意味があるのだろうか?
この先、何かいいことがあるのだろうか?
未来に期待できるだろうか、現状を維持できるだろうか、過去を美化できるだろうか?
もしもあの人みたいな顔(身体)で生まれていたら…
もしもあの人みたいに他人と話せたら…
もしもあの人みたいに立派に仕事(勉強その他)が出来て他人に認められたら…
すべての人生は、その他すべての人にとって意味はあるのか、それともないのか?
誰かの言葉(思想・芸術・生き方その他)は他の誰かを救えるだろうか?
”わたし”という存在が、”誰か”にとって何らかの意味を持ちうるのだろうか?
――分からない。だったら、”わたし”の生きている意味(価値・利益その他)なんてない。
そう思っていた。ここらで明言しなきゃいけないだろう。もしかしたら今”わたし”と同じように苦しんでいる誰かがいるかもしれないから。
「意味は、あったよ。今こうしているときも、意味あるんだよ」
サイトが、ブログが、音楽が、小説が、漫画が、テレビが、ラジオが、絵画が、思想が、宗教が、歴史が、その他「ひと」が形作ってきた全てに、確かに意味は存在する。それはどういうことか。ひどく単純だったことに今さら気付く。
その”わたし”の生き方(生き様・死に様・人生その他)に触れた誰かの人生にとって、”わたし”の人生は意味があるのだ。つまり、”わたし”のサイトの言葉ひとつが、それを読む誰かに意味をなすということ。
そう、”わたし”は救われないけれど、こうして文字になった”わたし”の一段上の次元にいる誰かが、もしかしたら”わたし”によって救われているかもしれない、という現実だ。それは全ての”わたし”と”誰か”の繋がりを意味していて、全ての次元の繋がりを意味している。
だから、孤独な生き方をブログに紡ぐ人は、そのブログを読んだ誰かの心に繋がっているということで、それは意味のあることだ。そして、すべての御話に登場するすべての孤独な誰かは、これを読んだ人、つまり今こうしてモニタの前にいる”一段上の次元”の誰かにリアルとして受け止められている。
だから、”わたし”が生きていようが死んでいようが、それ自体は”わたし”の問題なんだけれど、それを受け止めた誰かには、その時だけだとしても、残るのだ。
そう思えば、悔いはない。
私の人生には、価値がある。
もちろん、全ての他人の人生にも。
これを読んでる、”わたし”の一段上にいる「私」や、「あなた」の人生にも。
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